読売新聞編集手帳で「米長哲学」

将棋の米長邦雄永世棋聖が、「一番大切な対局、これだけは負けられない勝負とは何だろう」と語ったことがある。タイトル戦でも、昇段のかかる一局でもないという◆その勝敗が実は自分にはあまり影響がなく、しかし、対戦相手にとってはこの上なく重い意味をもつ一局であるとき、そういう勝負こそ全身全霊を傾けて勝たなくてはならないのだ、と◆「勝ったところで…」と手を抜くことが、将棋という技芸の道を冒涜(ぼうとく)し、みずからの誇りをも深く傷つけるからだろう。日本が初代王者となって閉幕した野球のWBC大会にも、“米長主義”そのままの一戦があった

として、World Baseball Classicの米国対メキシコ戦に話をつなげています。米長邦雄永世棋聖@将棋パイナップルでのよみくま氏による書き込みによると、読売新聞の論説委員に将棋好きの人が何名かいるために、このように将棋を話題にすることがあるそうです。

ここで「米長主義」として紹介された考え方は、一般には「米長理論」や「米長哲学」と呼ばれることが多いようです。米長邦雄ホームページ将棋の話には「米長哲学」ということばがあったので、表題では「哲学」を採用しました。

いわゆる消化試合でも手を抜いてはいけないというのはどんな競技でも言われることで、米長邦雄永世棋聖に指摘されるまでもありません。プロであれば、常に全力で戦うことはどんなルールよりも上位に位置付けられるべき概念です。どうしてそうすべきなのかというと、手抜きを見られるとその競技全体の人気低下につながるとか、八百長と隣り合わせになるとかいう理由が、私のような凡人には思いつきます。しかし、以前コメントで教えていただいたのですが、米長永世棋聖の考え方はそういうことではないのですね。『人間における勝負の研究』には次のような記述が出てきます。

人生にはこの運の大きな波が何回かあり、小さな波は小刻みにたくさんくる。大きな波にうまく乗れるか、あるいは呑(の)み込まれてしまうか、それが人生の岐路となるのではないでしょうか。

これは当然のことであり、ごく普通の見解でしょう。問題はその先で、「では、いったいどうすればその運をつかまえられるのか」なわけです。そして、それを一言で言ってしまうと、自分の利害には大した影響のない勝負で、必死に頑張ることです。

自分に影響のない勝負に全力を尽くせと説くのは、そうしないと全体がだめになるからではなく、自分自身がだめになるからなのです。これは米長永世棋聖が「運」を人生の中でも最も重要な要素の一つと捉えていることと密接に関わっています。私は米長永世棋聖の著書をそれほど読んでいないのですが、その背景には因果応報といった仏教的思想もあるのかもしれません。

米長永世棋聖の言葉に直接影響を受けたかどうかは定かではありませんが、現在の将棋界で自分に影響のない勝負に全力を尽くすことは全ての棋士に実践されています。ファンにとって見ればその理由は何でもよいので、いつでもそのような勝負が見られることに価値があると言えるでしょう。野球では消化試合に全力を尽くさない選手がときどきいるということで、今回のコラムになったのでしょう。

遠山雄亮四段が、大相撲での力士のコメントに対して「私はこんなコメントはありえないと思う」と書いていますが、このような感覚は米長哲学が背景にあって出てくるもので、今後も大切にしていくべき伝統だと思います*1。大相撲の千秋楽で7勝7敗の力士は8勝6敗の力士よりも頑張るというイメージを持たれているのは力士にとっても損ですし、そういうイメージを払拭していくようにしていくべきなのでしょう。

4月5日追記:

内容の濃いコメントをいただいたので、すべてには対応できませんが追記しながら考えたことをもう少し書いてみます。

まず「目先の最善と全体としての最善」について。例えば、野球ではエースが連投した方が勝ちやすい場面がありますが、プロの試合ではそういうことはしません。体力的に厳しく怪我の危険性のある競技では、その試合に力を出し尽くすことで続く試合に影響が残る場合があります。このように目先の最善と全体としての最善が鋭く対立するときは、全体としての最善を優先することが基本となります。つまり、どこからどこまでを「全体」とみなすかということですね。リーグ制のプロ野球なら1シーズンでしょうし、トーナメント形式の高校野球なら1試合かもしれません*2。しかし、各試合で全力投球が可能ならばそれが全体でも最善になることは言うまでもありません。窪田五段のご指摘にもあるように、将棋の場合はこれ近い状況が成立しています。言い換えると、1つ1つの対局が「全体」だということです。

次に、消化試合について、上では片方にとって重要でもう片方にとってはそうでもない勝負について書いていましたが、双方とも大きな意味のない勝負ではどうでしょうか。これについては米長永世棋聖の著書では触れられていません。したがってこれは私の解釈になりますが、それなりに頑張ればいいということではないかと思います。相手にとってのみ重要な対局を頑張らなくてはいけないというのは、相手のことを思いやるあまり指し手が鈍ることへの戒めと考えると、重要なのは普段通りの実力を出すことであって、対等な状態での勝負ではそれを阻害する要因は特にないと言えます。もちろん、だからといって意図的に手を抜くことが容認されるわけではなく、「対等な状態でうまく指せないのならそれが実力」というのが米長哲学の含意するところではないかと私は解釈しました。そういう意味では、shigezoさんの紹介された芹沢九段のエピソードはまさに米長哲学なのではないかと思います。

上では紹介しませんでしたが、『人間における勝負の研究』で取り上げられ、米長哲学のきっかけとされる対局は第24期順位戦B級1組最終戦大野源一八段との一局でした。14人リーグでの総当たり。12戦を終えたところで、上位の成績は以下のようになっていました(段位は当時)。

  1. 11勝1敗(01) 内藤國雄棋聖(昇級決定)
  2. 9勝3敗(06) 大野源一八段
  3. 9勝3敗(14) 中原誠七段
  4. 8勝4敗(05) 芹沢博文八段
  5. 7勝5敗(04) 佐藤大五郎七段
  6. 7勝5敗(13) 米長邦雄七段
  7. 6勝6敗(12) 北村昌男七段

内藤棋聖のA級昇級が決まって残りの椅子は1つ。大野八段が最終戦の米長七段戦に勝てば自力昇級、敗れると中原-芹沢戦の勝者が昇級となります。米長七段は勝ちと負けで順位が最大2枚変わるだけという気楽な立場での対局でした。当時59歳だった大野八段は人望もあり、A級復帰となれば大きく話題になることが想定されました。そのような状況で、米長七段は和服で対局に臨み不利だった形勢から粘って逆転勝ちをつかみ取ります。結局、大野八段は昇級を果たせず、中原七段が初のA級入りとなったのでした。

田丸昇八段は『将棋界の事件簿―現役プロ棋士の実話レポート』で次のように書いています。

大相撲の千秋楽で、すでに勝ち越しを決めて幕内の地位が安泰のAと、負け越すと十両に落ちる7勝7敗のBが対戦した場合。AとBの間に何らかの取り引きがあって、Aがわざと負ければいわゆる「八百長」相撲となる。しかしそうした不正行為がなくても、Aが性格的に情け深かったり、AとBが親しい間柄ならば、結果的にAは力が入らず負けてしまう、ということは実際にあったと思う。

将棋の順位戦の最終局においても、昇級や降級に関わる棋士と、そうでない棋士が対戦した場合、前期のAとBのような関係から、Aの立場の棋士が勝負に徹し切れずに負けてしまう、ということは過去にあったようだ。

実は、私自身が似たような経験を逆に受けたことがあった。四段時代の順位戦の後半戦でCと対戦したとき、中盤のまだ形勢不明という局面でCが突然投了してしまったのである。昇級を目指していた私にとって、大きな1勝となった。ただ私とCは別に親しい間柄ではなく、温情をかけられる理由は何もなかった。私は当時、Cは対局中に体調が急に悪くなったのかなと思ったものだ。これは後で知った話だが、Cは別の昇級候補の棋士Dと非常に仲が悪く、「Dが昇級するぐらいなら田丸に勝たせてしまおう」と、勝手に考えて負けてくれたようだ。

勝負の世界にこうした情実はあってはならないことだ。しかし棋士の集団の内部には、いろいろな人間関係が交錯しているのも事実だ。それが順位戦最終局での対局心理に微妙な作用を及ぼすことはあると思う。しょせん棋士も人間なのである。

昨今においては、前期のAとB、または田丸とCのような話をほとんど聞かない。相手がどんなに厳しい状況でも、全力で戦っていくのが常だ。そもそもひとつの勝敗で順位が変動する順位戦に消化試合はないし、明日は我が身という意識も強い。

何らかの都合で片側が勝手に負けを選ぶことを「片八百長」ということがありますが、米長哲学の実利的な功績はこの片八百長の禁止に結びついた点にあります。実際には片八百長のような例はほとんどないとしても、観客があれがそうだったのではないかと疑う余地を残すだけで不利益が生じてしまいます。大相撲で八百長の疑惑を払拭し切れていないのも、米長哲学が徹底されていないことと無縁ではないと私は思っています。

shigezoさんのコメントに「打算」という言葉がありましたが、読みも打算の一種と考えれば棋士はすべからく打算家と言うこともでき、打算的な人にも受け入れられるような理由付けをしたことが米長哲学の特徴とも言えるかもしれません。それが窪田五段の言われる「堂々と人様の足を引っ張れる」ということでもあると思います。

別の言い方をすると、盤上で「空気を読まない」ことの正当化とも言えるかもしれません。大山康晴十五世名人や羽生善治三冠のような棋士に対しては、たまには別の顔合わせが見たいというような無形の圧力を受けることがあると思います。そういった雰囲気の中でも実力を出し切れることがトップに君臨するための条件になるわけです。「空気を読まない」というと否定的なニュアンスを含みがちですが、こと棋士に関しては褒め言葉だと思います。

瀬川四段のプロ編入試験台2局の対局者となった神吉宏充六段は、インターネットの掲示板で「空気読め」と書かれたそうです。これは瀬川四段に勝ってほしいというファンの雰囲気を汲み取って負けてほしいという意味ですが、米長哲学の意味するところはそういう空気があるときにこそ全力投球しなければならないということです。正確に言うと「空気を読んだ上であえて逆に行く」ことの奨励ということになりましょうか。掲示板に書き込んだ人もそう野次ったから神吉六段が手を緩めるとは思っていなかったでしょうし、実際に神吉六段は本気を出して指したわけです。

*1:リンク先の話題について、魁皇関は最終的に8勝7敗で勝ち越しました。

*2:余談ですが、3連投で445球も投げる高校生投手を見ていると、その後の競技生活のことまで考えて起用してほしいと気もしてきます。