マスコミ取材のあり方

勿論感想戦は聞いていますし、対局中の控室の検討も聞いてます。でも、その後に生じる疑問も当然ありますからねえ(できるだけ自己完結するようにはしている)。

対局後日に対局者に手間取らせていいのか? むしろ取らせなきゃいけないのか?

いやほんの数分で済む事なら良いんですけど、結構突っ込んだ変化になるとね(これはすぐわからない自分の棋力の無さが悪い)。

極論を言えば、観戦記は読者のためにあるわけだからそれを良くするためなら対局者の都合etcを全く考慮せず、書き手は観戦記の質の向上だけを図ればいい、という事にもなりそうですけど。

難しいですね。

この筆者の方ではありませんが、ときどき見かける観戦記の悪い例として、「自分の頭の中で対局の流れを妄想してしまっている」というのがあります。架空の例を書くと「ここで羽生の手がはたと止まった。銀を引くか、手を抜くか非常に悩ましい。45分の長考はほとんど一瞬で流れ去ったに違いない。」みたいな文章です。こういうのを読むと、記者なんだから自分で想像しないで対局者に尋ねればいいじゃないかと思うのは私だけではないでしょう。

将棋世界で連載されている「盤上のトリビア」は遠慮なくいろいろな棋士に質問することで新たな発見を行っています。人気が出るのはそれが一番の要因でしょう。私は記者はできるだけ対局者に聞くべきだし、対局者もそれに答えるべきだと考えています。とはいえ、対局者に手間をかけることを恐れる気持ちもよくわかります。特に現代の棋士は親切な方が多いですから、その気になって尋ねればいくらでも答えてくれるでしょう。そういう人を相手にしたときの方が、かえって気を遣ってしまうものです。そして、その気遣いが往々にして観戦記の質の低下を招くことになります。

では「書き手は観戦記の質の向上だけを図ればいい」のかというと、やはりそれは極論ですね。スポーツ新聞などでは過剰な取材が批判される場面が多く見られます。そのようなことを繰り返すと、プレイヤーは話をするのを嫌がるようになり、結果的によい記事を書けないという現象が生まれます。

結局、バランスが大事という無難な結論になるしかないんでしょうね。「難しいですね。」と悩みながらいい文章を書いていってほしいと思います。近代将棋渡辺明六段のインタビューや100の質問などは、渡辺六段の人間的魅力を引き出していていい記事だったと思います。