プロ棋士を見る2つの視点

ボクは中学生のころから麻雀に明け暮れ(大げさ)、阿佐田哲也に夢中だった。 そんなわけで、プロというか勝負の世界に生きる人間というものは、勝てば生き残る。負ければのたれ死に。そんな生臭いイメージだった。

こういう見方が現在では少数派だというのは事実だろうと思います。例えば、羽生の『決断力』の世間的な受け止め方を見るとそんな風に感じられます。かなり大雑把な書き方になりますが、最近の棋士の傾向として、合理主義とか真理探究とかいう言葉が似合う。正しいかどうかはともかくとして、そう思われることが多いように思います。

しかし、昭和の頃は、升田あたりが将棋指しの典型的なイメージとされていた時代もあったわけです。こちらは勝負師とか無頼派とかいった言葉の方が似合う。これも実情とは異なるかもしれませんが、そういうイメージがありました。麻雀のプロは現在でもそんな見方をされることがあるかもしれませんね。将棋界においてこれを変えたのが谷川であり、羽生であるのだろうなと思います。

この対立する2つの視点は重要だと以前から考えています。前者が現在優勢だといっても、後者の流れは伝統として将棋界の深いところに根付いています。今後この2つの関係がどうなるのか。あるいは新たな傾向が出てくるのか。そんなことをきよきよさんの文章を見て思いました。

10月16日追記:

勝手に将棋トピックスに出た!で取り上げていただきました。上で書いたことは視点が違っていたようです。