河口俊彦七段による「解説の解説」

1月18日の日本経済新聞片上大輔四段が観戦記について意見を述べています。

近年、将棋の定跡書は様々な工夫が凝らされるようになり確実に進歩していると思うのですが、それに比べて観戦記は大して変わっていない印象があります。2004年2月1日に紹介した川端康成の「本因坊名人引退碁觀戰記」のような観戦記は現状では無理でしょうけども、様々な制約がある中でどんなことができるのか、可能性の模索がもっとあってもよさそうです。

観戦記を語る上で欠かせない人物の一人が河口俊彦七段です。「国文学 解釈と鑑賞 平成18年1月号」の中で、その河口七段が観戦記に関する文章を書いています*1。題して「一局の解説―金子金五郎名解説を解説する」。

河口七段は、将棋を知らない人向けに新聞観戦記について基本的なことを説明した後、次のように書いています。

ざっと、こんな風にして新聞の観戦記は作られているのだが、どんな観戦記がよいのか、となると難しい。評価の基準があってないようなものだからである。かといって、対局者の表情や仕種、その他情景を描けば、文章は面白くなっても、将棋の内容を伝えられなくなる。つまり、そのかね合いが難しく、観戦記者の腕の見せ所でもある。

タイトルにあるとおり、この文章では1957年7月10・11日に行われた名人戦第6局▲升田幸三二冠対△大山康晴名人(肩書きは当時)を解説した金子金五郎九段の観戦記について書かれています。この将棋は95手で先手の勝ちとなり升田が三冠を達成した歴史的な対局で、観戦記は16回に分けられて朝日新聞上で連載されました。この将棋は『升田将棋の世界』にも収録されています。

観戦記の第1・2譜は将棋がまだ序盤ということで指し手の解説はほとんどなく、金子九段による両対局者の描写が続きます。河口七段は金子九段の経歴を簡単に紹介した上で「そうした金子師の真髄ともいうべき、将棋と棋士についての思いがこの第二譜によくあらわれている。」と書いています。対局前の両者の様子が静かだったという客観的な描写から、特に挑戦者についてその理由を内面に求める主観的な描写に流れていく文章は誰にでも書けるものではありません。

ただし、そのような文章を書くためには文才以外のものも必要であると河口七段は言います。

ところで、観戦記者と対局者とは、ある種微妙な関係がある。

たとえば、観戦記は思うがままに、対局者に対し、批判的なことなどを書いたりしたら、たちまち恨まれ、「あいつが書くなら、わしゃ将棋を指さん」とか言われ、観戦記者は職を失う。新聞社側は指してもらわないと困るから、棋士の言い分を聞かざるをえない。

(中略)

まったく観戦記者の立場は弱く、どうしても当たりさわりのない文章を書くようになってしまう。骨っぽい観戦記がないのは、そんな理由からである。

個人的には現在もそうなのかどうかに疑問を感じますけども、そういうことがあるそうです。

そして、第10譜まで進むと将棋はいよいよ勝負所を迎え、観戦記も指し手への言及が主になってきます。下図が後手が△6三歩と打ったところ。

実戦はここから▲5四飛 △5三歩 ▲3四飛 △同歩 ▲7二銀成 △8六飛 ▲1五桂 △3三金 と進んで先手優勢となりました。上の局面について、金子九段はこの譜の冒頭で次のように解説しています。

升田のカンがさえきったかのように、水ももらさぬさばきを示した。まず表面に現れた今日の指手――5四飛から1五桂にいたる構想を説明してみると――

升田はこれで大山の飛を8六へ呼び込み、7七角打をふくみにして1五桂と打った。後手が2二金なら7七角打の両取りであり、3三金とさせれば2二歩打と、すべて大山陣の手薄い右から攻める態勢を獲得したことは明らかである。

これだけでは何を言っているのかわかりにくいと思います。それもそのはずで、その先を読まないとわからないような構成になっているのです。河口七段は次のように解説します。


これは結論を先に言っているので、首を傾げつつ読み進めると意味がはっきりする。

こういった書き方は金子師がプロ棋士だから出来る芸で、つまり指し手の意味を十分理解しているから、いきなり飛躍した結論を出せる。

ライターだとこうは書けない。解説役のプロは、わかりやすいよう順序立てて説明するから、それをメモして文章にすると、指し手にそった手の解説になる。

こうした指し手に沿った書き方の方がわかりやすく、無難でもあるものの、「妙手を見るときの読者の驚きがすくなくなってしまう」と言います。金子九段なら同じことをやっても自分で考えているために平凡に見えません。

大山名人は、よく飛車を四間飛車に振って玉を美濃囲いにした。アマ初段でも、まったく同じ形に組むことができる。しかし、形は同じでも堅さが違うのである。金子師の書く変化手順に同じことがいえる。

ところで、観戦記を書く際にだれに向けて書くのかという大きな問題があります。

観戦記の問題点はいろいろあり、どう読者を意識するか、も書き手側は考えなければならない。

初級者にも理解できるようにと、やさしい手順まで解説しているとくどくなる。ところが省略すると、文章としては上等になるが、わかる人にしかわからない、ということになる。どのくらいの棋力の読者を対象にするかは悩ましい問題で、多くのライターは、考えてもしようがない、と思っているようである。

さて、将棋は佳境にさしかかりますが、少し話題を変えてここでプロ棋士ではなく作家の観戦記の見本として大岡昇平の別の将棋の観戦記が紹介されます。投了が近い場面、大岡は指し手が進んでいても逆転の可能性はないとして指し手の解説を完全に省略しています。それについて河口七段は次のように書いています。

そして、「指し手について以下別に説明しない、」とは大作家だからこそ書けるのである。自分にわからぬことは書かぬ、というわけ。

大岡氏だからこそ自分流を通せた。その点は金子師も同じである。

元の将棋に戻って、将棋はついに終局を迎えます。金子九段の解説は最後まで盤上に向いており、控え室の様子などは出てきません。河口七段は次のように締めくくっています。

最後に金子師は「ただ御苦労様でした、」と大山にねぎらいの言葉を誌してむすんでいる。

こうして升田名人が誕生した。升田のみならず、全将棋ファンの願いがかなったのである。

思えば、昭和三〇年の半ばころから昭和三四年にかけて、もっとつきつめて言えば、昭和三二年から昭和三四年にかけての、升田名人の時代は、将棋史上のルネッサンス期ともいうべき輝ける時代であった。

その頂点をなす一局に、金子師の名観戦は花をそえたのである。私はまだ三段で、一人前の棋士(四段)になれるかどうかわからなかったが、棋界の前途に希望を持てた、本当によい時代だった。

あまり同意できない部分もありますが、全体に河口七段の個性が発揮された良い文章だと感じました。