振り飛車ワールド第3巻

振り飛車ワールド毎日コミュニケーションズから発売されている「振り飛車の最新情報から読み物まで、雑誌感覚でまとめた異色のシリーズ」です。体裁はA5判の単行本のようですが、中身は様々な著者によるコラム群が中心で、実質的に隔月刊誌と言っていいでしょう。私は居飛車党なので購入していなかったのですが、この第3巻だけはほしくなって買ってしまいました。その理由はもちろん巻頭インタビューです。

登場するのは加藤一二三九段*1。ご存じの方が多いと思いますが、名人の経験もある大ベテラン棋士で、米長、中原といった棋士順位戦から退いていく中、いまだにB級1組で指し続けています。このインタビューは加藤九段の個性がよく引き出されていて、加藤ファンには必見の内容です。

加藤九段の将棋に臨む姿勢はとても実直です。例えば、インタビューの中で、対戦相手によって精神状態が変わることはあまりないと答えています。概して勝負師の言葉はあてにならないものですが、加藤九段の場合は本当なんだろうなと思わせられるものがあります。相手ではなく盤しか目に入っていないのでしょうね。たとえ相手が将棋の神様だろうと、関係なく指すのではないか。そんな気がします。

加藤九段と振り飛車といえば、もちろん急戦です。棒銀です。以前、将棋世界で「棒銀一筋」という連載を持っていたほどですね。普通であればそんなタイトルの連載を始めてしまって途中で他の戦法を指したくなったらどうするんだろうと心配になりそうなところですが、加藤九段なら大丈夫。何の問題もありません。というのも、加藤九段は対振り飛車の戦法の中で棒銀は最良と考えて、頑固に指し続けているからです。だいぶ前から対振り飛車の作戦は居飛車穴熊のような玉の堅さを重視する戦法が主流で、棒銀のような急戦は損な戦法だという認識を持つ棋士が多いのですが、それでも加藤九段には信念があります。棒銀で負けてもそれは戦法が悪いのではなく、勝負所で判断を誤った自分が悪いのですから。

実際のところ対振り飛車棒銀穴熊のどちらが有利なのかは将棋の神様にしかわからないことですが、棒銀の有利さという感覚は私にもわからないでもない気がします。将棋の神様同士で棒銀四間飛車を指せば棒銀側が勝つのかもしれない、と。しかし、人間同士で指すとどうしてもミスが出てしまいます。振り飛車のさばきを抑えなければならない棒銀側は、一つのミスが致命傷になりうるのに対して、振り飛車側はミスをしてもまだ挽回が可能という感覚があります。例えて言うならば、棒銀のミス一つと振り飛車のミス二つが等価という感じでしょうか。同じだけミスをしたら振り飛車が勝ちそうです。居飛車穴熊ならばこの関係が逆転する。それが穴熊の優秀性なのでしょう。将棋の神様にとっての有利と、人間にとっての有利はちょっと違うのかもしれません。それでも究極の有利に向かって進んでいくのが加藤将棋の魅力です。

将棋に対する姿勢として、純粋に盤上の有利を求めるか、相手のミスも織り込んだ上で勝ちを求めるかという二つがあります。加藤九段は前者の要素を最も多く持っている棋士ではないでしょうか。例えば、先手番で▲7六歩 △3四歩 ▲2六歩 △4四歩と進んだとき、普通の棋士は相手を見て▲2五歩か▲4八銀を選択します。ところが、青野照市九段が書いていましたが、加藤九段だけは相手が誰でも▲2五歩と指します*2。これは、向かい飛車に対しては居飛車が有利にできるという信念があるためです。相手が振り飛車党なら矢倉を指させればミスが出るのでは、という考えにくみすることは全くありません。このような考え方は、相手は必ず間違えるという信念を持っていた大山康晴十五世名人の時代には少数派だったかもしれませんが、最近では羽生善治四冠や谷川浩司王位といった超一流棋士は盤上の有利を追求する方向に向かっているように見えます。時代は加藤九段に向かっていると言えるかもしれません。加藤九段にはまだまだ新しい将棋を見せてほしいですね。

そんな加藤九段が最近新しい本を出しました。未見ですが書店で見つけたら買うかもしれません。

*1:ご存じない方のために補足。こう書くとわかりにくいですが、加藤が姓、一二三(ひふみ)が名前、九段が肩書です。正座すると床に付きそうな長いネクタイとか、対局の合間の食事はいつも特上寿司とかが有名ですね。

*2:逆に、森下卓八段は必ず▲4八銀と指していたそうですが、現在は▲2五歩も指しているようです。