「アナログ」と「デジタル」

米長邦雄永世棋聖の「人間講座」をなかなか見られない私です。だいだいテキストの通りに進んでいるとは思うのですが。

それはともかく、先週の放映をご覧になった方はご存じと思いますが、米長邦雄永世棋聖の文章中の「アナログ」「デジタル」という用語はしばしば通常とは異なる意味で用いられていることには注意する必要があります。例えば、テレビ放送がアナログからデジタルになるだとか、囲碁や将棋はデジタルであるとかいったことはここでは関係がありません。

まず「デジタル」とは人工知能という機械の世界で、コンピュータがその代表です。これには、人間とは比較にならない「膨大な記憶量」と「高スピードの計算能力」という二大特徴があり、そこから無機的、機械的で心というものがない、といった性質を指摘することができます。

これに対して「アナログ」とは、端的に言って人間の心の世界です。そこには謙虚さがあり、笑いがあり、道があり、宗教があり、そして運気といったものがあります。もちろん、金持ちになりたいとか、将棋が強くなりたいといった、邪心や欲もあります。要するに、もろもろの人間的なものの世界です。

要約すると、米長永世棋聖によって「デジタル」対「アナログ」と名付けられた対立図式は、「機械」対「人間」という図式に読み替えることができます。「人工」対「自然」と言っても良いかもしれません。産業革命以降、普遍的に取り上げられてきたテーマと言えるでしょう。そのようなことを踏まえて考えると、米長永世棋聖の次の主張は賛同する方が多いのではないかと思います。

つまり私は、デジタルというものの本体を見極め、それを過大評価も過小評価もすることなく用途に応じて使いこなした上で、今こそアナログの生き方、言い換えれば人間らしい生き方を貫き通すべきだと、言いたいのです。

過大評価も過小評価もすべきでないというのは反論のしようがありませんし、人間は人間らしくなければならないというのはある種トートロジカルですが、それだけの理由があることなのでしょう。

しかし、そういったことを前提としても、この記述はいかがなものでしょうか。

人間の脳は0歳から3才までが非常に大事なのです。デジタル機器は地球史上でも人間のみがたかだか100年足らずの間に使用しているに過ぎません。

最近の研究では。子どもがデジタルのオモチャやゲーム機に熱中すると、前頭連合野という脳の部位が支障をきたすということです。

おそらくこれはいわゆる「ゲーム脳」を指しているものと思われますが、元の著書をもう少しよく読んで検討したり、著者の他の発言を見直したりした方が良いのではないでしょうか。例えば、『ゲーム脳の恐怖』が「トンデモ本」とされていることとか、著者がテレビゲーム化されていない将棋も対象に含めているらしいことなどは知っておくべきではないかと思います。

まあ、テレビゲームも将棋もやりすぎは避けましょう、ということならその通りです。何でもやりすぎは良くありません。ですから、

キレる子どもや社会的知性が身につかない人間は、幼児期にデジタルの世界に没頭しているケースが多い。

という話は、根拠のないものであると指摘しておきます。米長永世棋聖はこういうところでは慎重というイメージが私の頭にあっただけに、やや意外でした。