名人戦契約問題についていろいろ(33)

少し間が空きました。毎日新聞社は、契約金額などについて7月上旬をめどにに回答することになったようです。

毎日新聞社は6月26日に株主総会を控えているのでいろいろと多忙なのかもしれません。上記の記事でも出てくる編集局長の観堂義憲は、株主総会で提案される役員人事で常務取締役、東京本社代表に就任することが内定しています。

上記記事は6月9日に役員人事案が変更されたことを伝える記事です。元々の案は5月17日に発表され、観堂氏は「常務取締役、人事・総務本部長、コンプライアンス担当、広報担当」となる予定でしたが、河内孝常務が辞職したことに伴いこうなったようです。そのあたりの経緯は週刊誌などでも報道されていました。下記はZAKZAKの記事です。直接関係ない話題でも「名人戦問題など、ご難続きの毎日」と書かれてしまうあたり、新聞業界では名人戦の話題は注目を集めているのかもしれません。

さて、最初の記事に先立って、プロ棋士が書いた記事が雑誌に出ていました。一つはNHK将棋講座テキスト7月号の青野照市九段のコラム。もう一つは月刊誌新潮457月号の田丸昇八段の記事です。

プロ棋士は内部の情報に触れる機会が多いことから、様々な事実関係についてより精度の高い記事が期待できます。その一方で、投票権を持つことから、ある思惑があって書いているという憶測が成立する可能性もあるでしょう。今回紹介する記事は比較的客観的な立場を意識して書かれていると感じていますが、そうであったとしても、読む側としてはその棋士がどちらを支持したいのかが文章に大なり小なり影響を与えていると考えるべきだと思います。

NHK将棋講座テキスト7月号は6月15日発売ですが、他の雑誌に比べて原稿の締め切りが早いようですので、青野九段もそれほど情報を持って書かれたわけではないと思われます。名人戦第2局の話が出ているのに第3局の話はないことを見ると、4月の終わりか5月上旬に書かれたのではないかと推測されます。この原稿が書かれた後もいろいろな情勢の変化があったことを考慮に入れて読む必要があります。

青野九段はこの問題が発生した経緯とこれまでの名人戦契約の推移を簡潔に解説した後、次のように指摘します。

過去2度、主催紙が変わった背景には、契約金交渉のこじれがあった。というか、契約金交渉がこじれたから、主催紙を移す理由になったわけだが、今回はそうではない。

これがごたごたを加速させる大きな要因となったことはすでにご存じの通りです。

朝日新聞社も前述のように、現在の契約金を大幅に上げるだけでなく、簡単にいえば現在の「朝日オープン」が解消する分まで、5年間保証するという、破格の提示をしてきている。にもかかわらず、毎日が王将戦まで手放せば、棋士にとっては2つ棋戦がなくなる(朝日オープンと王将戦)うえに全体の契約金まで下がるということになる。ゆえに理事会の移籍のねらいは単に財政難ということでなく、他のところにあるのかもしれないが。

これが当初から解消されない疑問点です。朝日新聞社の提示する「普及協力金」が5年間しか続かないとは日本将棋連盟理事会は公式には話していなかったと思いますが、実質的にそのように受け取られる状況になっています。それを前提とすると、6年目からはマイナスになるようなことでいいのかという疑問が当然生じてくるわけですが、それに答えるような記事は私はまだ見ていません。毎日新聞社王将戦を手放すことはないだろうという読みなのか、それとも上にあるよう「他のねらい」があるのか。どうなのでしょうか。

次の部分は青野九段の正直な感想だと思います。

それでも私は、三方が何とか少しずつでも譲歩し、不満を持ちながらも、最後は折り合いがつく形がないかと考えている(ない可能性が強いが)。もう1つ書き忘れたが、同業種(新聞各社)が並んで1つの相手(将棋連盟や日本棋院)にスポンサー契約をするということは、他の世界ではまずないと思えるから、このシステムをみずから壊すことは、相当の損失かと思う。

実際のところ、「相当」どころではない損失をもたらす可能性は大きいでしょう。そういうことが起こり得る状況を作り出したことが、日本将棋連盟にとって今回最も問題となる部分だと思います。

次に、新潮457月号の田丸八段の記事「棋界激震! 名人戦争奪バトルの『禁じ手』」を紹介します。この記事は7ページと長文ながら、田丸八段らしくよくまとまっている印象です。

田丸八段は、まず名人戦の歴史および前回の名人戦契約者移行の経緯、さらに1991年に起きた移行問題(結局移行はならず)について比較的詳しく記述しています。1991年の話は、このページではあまり書いていなかったので少しだけ紹介します。

平成の時代になると、朝日内部に変化が生じてきた。名人戦問題で揺れ動いた当時の役員や担当者が辞めたこともあり、社内に名人戦待望論が持ち上がったのだ。それが平成3年に表面化した。

朝日は連盟会長の二上達也(九段)、常務理事の大内延介(九段)と隠密裏に話し合い、名人戦が朝日に移った場合の条件を連盟に正式に提示した。名人戦契約金は3億円(当時の毎日との契約金は2億6400万円)、空白期間の補填分や祝い金として一時金が4億円というもの。当時、理事会の一員だった私は思いも寄らぬ話に大いに驚いた。

その後、理事会は特別委員会や棋士会を開いて棋士たちと協議した。毎日派の大山はもちろん大反対した。有力棋士中原誠永世十段)と米長は、「新聞社との関係は信頼関係で成り立っている」「事の善悪でなく和を尊んでほしい」と語り、理事会に自制を求めた。そんな両者が15年後、まったく逆の立場になったのは皮肉なことだ。ほかの棋士も慎重論が大勢を占めた。

実は、理事会の中も意思が統一されていなかった。8人の理事のうち、朝日派は二上、大内、田丸の3人。私は将来的展望から賛成した。ほかの5人は毎日との道義的な問題、毎日への説得が難しい、などの理由で反対の立場だった。

朝日問題の決着は平成4年の棋士総会に持ち越された。しかし理事会が一致結束していないうえに、反対派の棋士が多く、この議案は廃案になった。当時の連盟経営は割合に安定していて、棋士たちは大きな変化を望まなかったのだ。

そんなわけで、移行は実現しませんでした。とはいえ、朝日新聞社名人戦をほしがっているのはずっと一貫しているわけです。機会さえあれば大幅に多額の契約金を提示してでも名人戦主催社になるという意志は、かなり固いものがあるようです。

その後、田丸八段は日本将棋連盟の概要、財務的な面からの解説を行い、今回の問題に至る流れをまとめています。棋士は次のように感じたそうです。

大方の棋士は毎日との道義的な問題を憂慮した。毎日が何の瑕疵もなく30年にわたって名人戦を育ててきたのに、連盟側の事情で一方的に契約を解消するのは信義にもとるというものだ。棋士会の席上で羽生善治(三冠)は「今後、将棋界は市場原理の世界に移行するのか……」と、心配そうに語った。

そんな状況で、真偽不明の情報も飛び交う中で棋士総会が行われ、先日お伝えしたような結果となりました。これを受けて田丸八段は次のように記事を締めくくっています。

毎日が単独主催を求めた場合、理事会は棋士たちの判断に委ねることにした。ただ現実的には毎日の提示額が朝日以下ならまず通らないし、同額でも毎日有利とはいえない。連盟理事会のこのたびの一連の動きを見ると、「先に朝日ありき」という印象はやはり否めない。連盟と毎日の交渉は8月までに決着すると思われるが、毎日にとっては厳しい状況になることが予想される。

毎日にとって厳しくなるという予想の根拠は示されていないのですが、田丸八段はそのように感じているということのようです。

今回の問題を考えるにあたって、日本将棋連盟と新聞社の関係がどのようなものなのかという認識がポイントになってくると思います。田丸八段は次のように書いています。

しかし連盟にとって、毎日との関係はいわゆる「タニマチ」ではない。毎日も価値の高い名人戦主催で利益を得ていると思う。

ここで言う「利益」の具体的中身についての言及はありませんでしたが、将棋を掲載することによって読者が増加する効果があるということなのでしょう。現在、実際にそのような効果があるかどうか疑問を感じる将棋ファンが多いのが実情ですが、新聞社としてはその点についてある程度の資料を持っているはずですし、現実には新聞社が効果があると考えているのならそれはそれで問題のない話です。

歴史的には、囲碁・将棋は新聞というものが日本に生まれた当初から新聞の販売促進に活用されてきました。その事情は30年前の名人戦移行のときも基本的には同様で、そのときは契約金が大幅に上がることは前提とした上でどのくらい増加するかについて交渉が決裂してしまったわけです。その意味では、だめでも他に引き取り手があるだけの価値を持っていると確信できる土壌が残っていました。

しかし現在は将棋人気も後退し、現実にいくつかの棋戦が廃止され、いつまでも新聞に将棋が掲載されるとはいえない状況になってきています。このことは日本将棋連盟の交渉上の地位を損なう方向に作用し、必然的に連盟が強気に出られない状況を生み出します。そんな中で、名人戦へ高額の提示をした朝日新聞社と、名人戦を守ると明言した毎日新聞社の争いは、連盟が強気に出られる可能性のある数少ない切り札でした。

青野九段は次のように書いています。

そしていちばん大事なのは、新聞社は将棋や囲碁に対して、費用対効果を計算するのではなく、文化に対する後援として契約金を払っていることである。これが企業なら、営業成績が悪くなったり、費用対効果においてお金を出す価値がないと判断すれば、すぐに打ち切りの対象となるだろう。もっとも将棋を応援してくれる企業は、JT始め皆、文化の後援者とわれわれは受け取っているのだが。

この認識は、田丸八段の認識とは食い違っています。実際のところ、将棋が伝統文化であるという側面が強調され出したのは比較的最近のことではないでしょうか。それまでは費用対効果の面で新聞社にメリットがあることがはっきりしていましたから、その点を強調する必要はありませんでした。新聞社が将棋に対する支出の目的をどのように捉えているのか、その意識に変化があるのかどうかが今後の鍵を握ってくることは間違いありません。