将棋と性差

大きなニュースと重なってあまり読まれない予感もするのですが、女流棋士の話題に関して素晴らしいエントリがありました。

このページでのエントリでいうと、次に関連する話です。

まず、「女流棋士新法人設立準備委員会ブログ」開設でも触れましたが、AERA12月18日号の記事は今回の女流棋士会独立を語るのには的はずれな視点だと考えています。これは第一に組織の問題であり、女流棋士の問題は女性であることに直接由来するのではなく、せいぜいマイノリティであることが原因の一つになっているという程度という認識です。

しかし、それはそれとして、将棋界で奨励会を勝ち抜けるほどの実力を持った女性が現れないのはどうしてかを考察することは意義があると考えられます。

11月25日の女流棋士が日本将棋連盟から独立へ(続)の中で、私は畠山成幸七段の文章を引用した上で「それにもかかわらず、奨励会を勝ち抜く女性が現れる気配すらいっこうに感じられないのはどうしてか、真剣に検討されるべきだったと思います」と書きました。将棋人口に男女で差があることが影響していることは明白です。生まれつき男女に差があって、将棋は男性に向いているのだという言説もときどき見かけます。このような要因があるのかないのか、あるとすればどの程度あるのかを検証できないものでしょうか。

で、素晴らしいことに、上のエントリの後半でチェスではそのような検証を行った論文があるという話がされています。Mark E. GlickmanとChristopher F. Chabrisの共著論文で、前者はチェスのレーティングを調べているとよく見かける名前です。

この論文の結論は、生まれつきの生物学的な差が実力差に結びついているという根拠は見出せず、それよりも競技人口の差が影響しているようだというものです。したがって、女性のプロを誕生させたいと思ったら、将棋を指す女性の数を増やせばいいのではないかという当然ながら重要な示唆が得られます。

私の感覚だけで言うと、女性の数が少ないので強い人が出てくる可能性が低いという確率論的な帰結だけでなく、女性が少数派であることに起因する不利な扱いが様々な場面で無意識的な形で起こっているのではないかと感じます。例えば、2004年11月29日に女流棋士の居場所で触れたインタビュー記事は、読んでいる限りでは当人に悲壮感が見られないのでそれほどではないのかもしれませんが、こういう調子だと今もいろいろあるのだろうなあと私には感じられました。

女性が疎外されることをなくしていかなければならないのは言うまでもないことですが、将棋を指す女性を増やすにはおそらくそれだけでは不足でしょう。それは必ずしも優遇するという意味ではないのですが、少数派が同じように活動するには、同じでは足りないということがあるかもしれません。

最後に、同じ方の関連するエントリにリンクしておきます。