棋界ニュース

リンクを中心に手抜きモードで。

古河女流初段は、結婚後も旧姓で活動予定。

山粼隆之五段が田中魁秀九段を破り17連勝中。北島忠雄五段も強敵の藤井猛九段を破り12連勝中。

竜王戦残留決定戦で勝ち1100勝を達成。自身の日記では「竜王戦なので、一面をかざってもらえると思っていたのに・・・・。」と冗談を書く余裕も。

神崎健二七段のホームページ リニューアル

神崎健二七段のホームページが模様替えしました。今度はお金を出して発注したようですが、以前より悪くなっているように思います。トップにスプラッシュページと呼ばれる画像だけのページをはさんでいますが、このようにする理由がわかりません。実際、掲示板ではさっそく「メニューに行くのに、一瞬迷いました(^^)」という書き込みがあります。来訪者にそのように思わせるという一点を取ってもプロの作ったページとして失格でしょう。

そして、画像を大量に使っているのはいいのですが、その代替テキストをほとんど書いていないのもいけません。Another HTML-lintの結果を見るとよくわかります。その画像もどこをクリックできるのかわかりにくく、例えば「竜王戦」と書いてある画像がクリックできるように見えてしまいます。何円かかったか知りませんが、別の方面にお金を使った方が良かったのではないかと思います。

7月3日追記:表現が穏当ではなかったなと思い、3日付けの文章でこのような文を書いた背景にある考え方のようなものを、別の観点から書いてみました。

7月4日追記:改めて考えた結果、上の文章を不可視化しました。神崎健二七段にお詫び申し上げます。

将棋パイナップルでのやりとり (5)

(長文です。)

将棋パイナップル棋譜の「著作権」についてのスレッドでのやりとりもだいぶ熱が入ってきており、すでに60レス以上を消化しています。
さるさ氏の書き込みは途絶えましたが、それにかわって現在はルール評論家氏と塚本惠一氏、白砂青松氏の三氏の間で棋譜・詰棋の著作物性に関する議論が行われており、それぞれの立場は次のようになっています。(ここで「詰棋」は詰将棋と詰碁の両方を指す言葉として使っています。)

ルール評論家氏
棋譜は著作物ではない。(しかしその逆の意見もあり得る。)詰棋については、断言できないが、著作物となり得る。
塚本惠一氏
棋譜も詰棋も著作物。
白砂青松氏
棋譜は「ゲーム」なので著作物ではないが、詰棋は著作物。

塚本惠一氏は著名な詰碁作家であり、最近は詰将棋も手がけられています。氏の作品の一部はCome together All Gamersで鑑賞できます。白砂青松氏は有名将棋サイトの白砂青松の将棋研究室を運営されており、特に分館のコンピュータ将棋のページは出色です。

塚本氏の議論には、用語の使い方と著作権が及ぶ範囲について混乱があるように思います。著作物性の議論は著作権法第2条第1項第1号の著作物の定義に基づいて行われるわけです。

著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう。

この文章で用いられている、「思想又は感情」とか「創作的」とか「表現」という用語は、日常的な意味と比べて多少のずれがあります。法律で使われる用語はそういうものであり、日常的な意味に基づいて解釈したのでは結論を誤る可能性があります。具体的にどう違うかについては棋譜と著作権にまつわるMEMORANDUMにも少し書きましたし、『著作権法逐条講義』*1 などの本を参照していただければよくわかると思います。

上の条文に見られるように、著作物であるためには「創作的」でなければなりません。そして、著作物の中で「創作性」のある部分が著作権で保護されるわけです。ここで注意すべきなのは、著作物性の議論では創作性の高低は問題にされないことです。他人と区別できる程度の個性が現れていれば「創作的」と認められるのに十分です。塚本氏が挙げた絵画の例で説明すると、ピカソの絵も、幼児の絵も、どちらも著作物であるという点においては同等です。芸術性の高低は著作物性の有無によって判断できるものではありません。

質の高い詰棋は芸術です。私は詰棋は上の意味において創作的だと考えています。しかし、その二つの事柄が直接結びつくわけではありません。極端な例を一つ挙げましょう。将棋世界7月号付録「中田章道短編傑作選」13番が詰将棋パラダイス1956年9月号の北川明氏作と同一であるという指摘が、今月の詰パラでなされました。偶然同じ作品ができてしまったのでしょう。このように過去の著作物と同一の作品が偶然創作された場合には、両方とも著作物として認められ独立して保護されることになります。したがって詰将棋が著作物であっても、中田章道六段が同一の作品を載せてしまったことは違法行為とはなりません。しかしそれにもかかわらず、中田六段がその作品を自己の作品として掲載することは二度とないでしょう。過去と同一の作品は無価値とされているからです。どのような作品に価値があるかを考えるのは鑑賞者の役割であって、著作権法は作品の評価に関わりません。

塚本氏は詰棋に創作性がある理由を次のように書いています。*2

詰碁と詰将棋(以下「詰棋」と総称)は表現が創作的と言えます。

正解手順が同じで配置が違う詰棋はいくつか作れる場合が多く、それらの中には解答者に異なる印象を与えるものが存在します。

イデアやネタが同じで正解手順が違う詰棋はいくらでも作れて、それらの問題図は全て異なる表現です。解答者の印象が異なることは当然です。

この立場では、詰棋の創作性は正解手順や初期配置の違いに由来するものとされます。そして、解答者に異なる印象を与えられる程度の差があれば、別の作品と認められることになります。したがって、ある作品の類似作を創作したとしても異なる印象を与えられれば別個の著作物となります。一つの作品の著作権が及ぶのは同じ印象を与える図のみであり、それを越えて著作権を行使することはできません。塚本氏は「同じ手段を用いた類似作品については「二次的著作物」とみなせる場合が多い」と書いていますが、作品中で使われた手筋・構想が同じという程度では別個の著作物とみなすしかないと思います。

それでは、「「塚本新手」と宣言する権利」は存在しないのかというとそんなことはありません。上で述べたように、詰棋には詰棋独自の価値判断基準があるのですから、それに沿った形で「塚本新手」と呼べることが認められれば、著作権法に頼ることなく目的が達成できます。それで十分ではないでしょうか。

もちろんだからといって、詰棋が著作物であると主張する実益がないわけではありません。塚本氏が初めに書いたように、他人の作品を勝手に出版するというような行為に対しては、著作権法による保護がある方が有利に戦うことができます。著作権法が問題にしているのは主にそのような行為だと思います。実際のところ、私は詰棋の著作物性を否定しようとしている人を知らないので、塚本氏が心配するようなことは起きないと考えています。

7月14日追記:塚本惠一氏の抗議を受けて上にあった文章を削除しました。この場で塚本氏にお詫び申し上げます。

7月16日追記:削除は塚本氏の文章を読み違えた私の早合点でした。文章を原状に戻すとともに、改めてお詫び申し上げます。

7月17日追記:上の文章で、書籍を紹介し、その本を読まなければならないような印象を与えたことなど、表現に不適切な部分があったことにつきまして、塚本惠一氏にお詫び申し上げます。今後はこのようなことのないよう注意していく所存です。

次に白砂氏の議論ですが、氏は次のように主張しています。

棋譜はゲームの記録だから著作権は発生しない

詰棋はパズルだから著作権は発生する

私は白砂氏と私のサイトの掲示板で一度だけやりとりしたことがあります。そのときは、この主張についてよくわからないとだけ書いたのですが、ここで何をわからないと思ったのかを含めて詳しく書いてみます。

まず、私は白砂氏の主張の気分はよくわかります。この主張で伝えようとしているのが気分であるということは白砂氏自身も認識した上でそのように書いているのでしょうが、現在の法律的な議論では、この主張についてわからないという感想を持たざるを得ません。

法律の議論ですから、法律の条文に沿って行われる必要があります。「ゲーム」という語は著作権法に登場しませんが、何らかの形で明確な定義をおいてやることによって法律用語に準じた扱いをすることができるようになります。そこで「ゲーム」の意味を明確にするために(だと私は解釈しました)、ルール評論家氏が次のような質問を行いました。

例えば、二人の人間が、1分間にどちらがどれだけ多く俳句を作れるかという「ゲーム」をやると、ゲームの記録(どっちが何個作った)と著作物(俳句)が同時に発生してきますよね。将棋の棋譜もそれと同じで、創作的な思考の成果物としての「棋譜」と、勝敗記録とが同時に発生するのだ、という反論にはどのように答えましょうか?

これに対して、白砂氏は次のように答えています。

「俳句」は文学ですよね。

「将棋」はゲームですよね。

 ですから、

 俳句を使ったゲームは、文学を使ってゲームしているんで、その結果文学作品とゲームの結果ができる。

 ゲームを使ったゲーム(笑)は、ゲームを使ってゲームしてるんで、その結果出てくるものはゲーム1(将棋の流れの記録)とゲーム2(対局の結果の記録)ができる。

 となります。

ほかにテレビゲームについては著作物とみなされる部分がありますが、この回答から類推すると、テレビゲームの中の映像やストーリーという部分について著作物性が認められるのであって、映像やストーリーそのものは「ゲーム」ではないということになるでしょうか。となると、「ゲーム」とは俳句でも映像でもストーリーでもないほかの何かですが、そのように何かでないものという形で「ゲーム」を定義するとするなら、定義の中に著作物でないという性質が入ってしまうことになりそうです。もしそうだとすると、著作物でないから著作物でないという、同義反復にすぎなくなってしまいます。

もう一つの解釈は、「ゲーム」という語を日常的に使われる意味と解釈することです。その場合、「ゲーム」は法律的には未定義状態の語ですから、「ゲーム」(の結果として生成されるもの)が著作物でないことは別途論証する必要があります。しかし「「ゲーム」と呼ばれるものはどれも著作物でない。」ということが論証できるなら、「棋譜が著作物でない。」ということも同じ方法で論証できるはずです。結局のところ、ルール評論家氏がしたような、表現の創作性に関する議論は避けられないことになります。

いずれにしても、「ゲーム」という語を持ち出したことによって議論が簡単になることはありません。日常的な理解における説明以上のものではないと思います。

*1:この6月に四訂新版が出たんですね。

*2:私は、棋譜や詰棋が「思想又は感情」を表現したものであることは問題ないと考えています。重要なのは創作的かどうかです。詳しくは、棋譜と著作権にまつわるMEMORANDUMを参照して下さい。