「仲間だけなら全てはうまくいく」のか

ここ数年の将棋界の動向を見ていると、私はときどき『瀬川晶司はなぜプロ棋士になれたのか』に出てくるエピソードを思い浮かべます。この本は瀬川晶司四段のプロ編入を追っていますが、それにとどまらず将棋界の問題点に深く切り込んでおり、将棋界のことを考える人にとって必読の本になっています。この本のエピソードの中で私が最も印象的に感じたのは、森下卓九段が2005年4月15日に日本将棋連盟理事への立候補を決断する少し前に体験した話です。

しかし、この問題が大きく報道されると、思いもかけない人から質問されるようになった。森下の子どもが通う幼稚園のお父さんたちである。誰に会っても大きな声で挨拶する礼儀正しさから「律儀流」の異名も持つ彼は、丁寧に将棋界のシステムについて説明した。ところが、いくら話しても分かってもらえない。
「実績のあるアマが年齢の問題だけでプロになれない制度はどうかしている」

森下も一生懸命弁明する。彼は三段リーグ編入が妥当だと考えていた。
「いや、現役の奨励会員も公式戦に出ればそれぐらい勝つんです。元三段の瀬川さんがプロに勝つのは不思議ではありません」

この答えは、将棋界の制度を知らない父親たちには全く理解できなかった。
「それはおかしい。奨励会でそんなに強い人がいるなら、瀬川さんも含めて、みんなプロにすべきでしょう」

素朴な疑問を前にして、森下は答えに窮した。
「何ですか、将棋界ってところは」

最後は奇異な目で見られることになる。これが何よりつらかった。

こうしたこともあって、森下九段は瀬川晶司氏のプロ編入に賛成する姿勢に転換し、さらにA級棋士としては異例の理事立候補に踏み切ることになりました。ここでの本題ではありませんが、将棋界に貢献する能力も意欲もある人材に何もさせないままにおいておくような制度は何とかすべきだと思っています。

ここでわかるのは、森下九段は話せば理解してもらえると思ったものの、それは間違いだったということです。いくら制度の内容を説明しても、それに正当性があると認めてもらえるかどうかは別の話です。3月19日に女流棋士独立問題 羽生善治三冠「分裂は良くない」などの中で紹介した西村一義九段の「我々の世界と違うと強く感じた」という発言もそうですが、将棋界の仲間内の論理が外の世界で通用するかどうかに関して、楽観的に考えすぎているプロ棋士がいるのではないでしょうか。お役所でも民間でも仲間内特有の論理がまかり通る組織はたくさんありますが、たいていは外部に対して何とかうまく取り繕う術を心得ている、または少なくともその必要性を認識していると思います。それぞれの世界でそれぞれの考え方があること自体はそこに価値がある場合もありますが、そうであってもそれと外部とどう折り合いをつけていくかを真剣に考えていく必要があることを確認しておきたいと思います。

もう一つ記憶に残っているエピソードがあります。読売新聞記者の西條耕一氏が2004年の竜王戦契約金交渉で経験した話だそうです。

竜王戦の契約金は昭和62年の第1期当時は2億5600万円。バブル崩壊後の不況下でもその金額は上積みされ続け、平成17年には3億5700万円まで高騰していた。このまま上げ続けるには、竜王戦の価値を高めてもらわなければならない。連盟はこれまで読売に対し、どんな貢献や努力をしてきたか。そして、今後どうするつもりなのか。これらを具体的に説明した文書を提出してほしい。西條の上司はそう要望していた。

後日、渉外担当の幹部職員が大手町の読売本社に文書を持参した。

読売新聞社竜王戦の契約金を上げてくれないと他社の契約金も上がらない。ぜひとも上げてほしい」

理事名でそう書いてあった。これが契約金を上げる理由になると考えているのだ。

こうした体質が名人戦問題に見られる騒動につながったと私は考えています。

それぞれの考え方をわかりあうための方策は様々な形でのコミュニケーション以外にありません。個人同士ではなく組織であれば、情報の流通を促進することが重要であるということになります。そして、日本将棋連盟のような組織と将棋ファンのような存在の間でいうと、情報の流通に不可欠なのが情報公開と広報です。

日本将棋連盟の情報公開が非常に不十分であることは何度か指摘してきましたが、広報については名人戦問題の過程で多少の改善が見られたと思っていました。それまでに比べてプレスリリースらしき文書を出す頻度は高まりましたし、詳細は不明ですが広報部という名前の部署が文書の署名に登場したので存在がわかったということもありました。

しかし、いくつかの発言を見ていると、そういう認識は日本将棋連盟執行部にはあまりないようにも思えます。例えば、このページで何度が取り上げた田中寅彦九段の発言からは何かしなければならないという意識はあまり感じ取れません。

また、「逓信協会雑誌」2006年8月号に掲載された「将棋の風景」というタイトルの西村一義九段の連載コラムでは次のように書かれています。

将棋界は今年の春から夏にかけて、名人戦問題では世間をお騒がせしてしまいました。将棋連盟側の当事者の一人(専務理事)として、現時点では詳しいコメントはできませんが、ただ言えることは、将棋連盟側にも落ち度はありましたが、意図的に作られた悪意の情報が独り歩きして、一方的に袋叩きにあう苦しさは、まるで戦闘機や戦車を相手に徒手空挙で立ち向かう姿でした。

今回の件では、メディアというものの怖さ、反論しようにも、対抗する手段を持たない将棋連盟側の悲しさをつくづく感じました。また多くのファンの方にご心配をかけてしまったことは本当に申し訳なく残念でなりません。

「対抗する手段を持たない」という言葉をメディアの中で書いているという自己矛盾からしておかしいわけですが、実際のところ将棋世界とか日本将棋連盟公式サイトという立派なメディアを自前で持っているわけで、「戦車」とは行かなくとも「徒手空挙」でないことは明らかです。自分たちの考え方が伝わっていないのは、自分たちの努力が足りないせいではないかと一度考えてみてほしいと感じました。

女流棋士独立問題においては、日本将棋連盟理事会は事実上広報を放棄するような態度に出ています。女流棋士独立の記事が最初に出た2006年11月末から現在までの間、日本将棋連盟公式サイトでの関連文書の発表は4回だけです。これは女流棋士新法人設立準備委員会がブログを使って広報に努める姿勢を見せているのとは対照的です。

さわやか日記3月29日(木)17時38分48秒付で次のような記述がありました。(さわやか日記には、基本的に前日の出来事が書かれるので下記は3月28日の話です。)

午後は棋士会。50名近くが集まりました。
主として女流の独立についてです。約2時間余。正直に理事会は実情を話し、疑問にお答えする。当然意見は対立することもあります。しかし、男女問わず棋士仲間だけなら全てはうまくいくと全員感じたことでしょう。
理事会がどんなに困っているかも少し理解されたかもしれません。
意見が違っても、棋士仲間の心はつながっていることが皆分かりあえたような氣がしています。

今回の問題における広報の欠如の背景には「仲間だけなら全てはうまくいく」という考え方があるのかと思いました。「仲間」以外を排除すればうまくいくと。仮にそう思っているとしても、それをこうしてそのまま書いてしまう不用意さはどうにかならないかと思わずにはいられません。

棋士だけでやっていればうまくいくということは、日本将棋連盟がファンとの関わりで成立している以上はありえないことですし、仲間だけでやっていればよいと本気で思っている棋士はほとんどいないだろうと信じますが、将棋界の中と外との溝をできるだけ埋める努力は常に怠らないでほしいと願います。そのためにも、溝の深さがどの程度あるのかはしっかりと認識しておく必要があるでしょう。