フィッシャーを救おうとする羽生

上のエントリーでボビー・フィッシャーの現況について書きましたが、将棋界でもフィッシャーを支援する人がいます。羽生善治二冠はその一人です。9月17日に紹介したとおり、羽生は*1小泉首相あてに「フィッシャーさんを自由に!」と題するメールを送信しています。

その後、文藝春秋2004年11月号にてその詳細が羽生本人の文章で公表されました。発売からかなりの日数がたってしまいましたが、ここではこの記事を紹介します。

「『伝説のチェス王者』フィッシャーを救え」と題されたこの記事は、羽生が首相へ送信したメールの文章から始まり、次のように文章が続きます。

私は先月*2、「フィッシャーさんを自由に!」と題した右のメールを首相官邸のホームページから小泉首相宛てに送りました。もちろん生まれて初めてのことです。

なぜそんなことをしたのか。それは、フィッシャーさん(愛称はボビー・フィッシャー)が、単なるチェスの「元世界チャンピオン」以上の偉大な存在だからです。

そして、フィッシャーの経歴が簡単に紹介され、羽生のフィッシャーに対する思いが語られていきます。

その頃*3彼はすでに公の場に姿を現さなくなっていましたから、実際にお目にかかったことはありません。しかし、知れば知るほど、フィッシャーさんはあらゆる面でチェスを変えた人であり、二十世紀の人類を代表する天才の一人といっても過言ではないと思います。

羽生がフィッシャーをどれほど評価し尊敬しているか、よくわかる文章です。

そのあと、今回の事件について触れられ、そしてフィッシャーについてさらに詳しい情報が書かれています。フィッシャーがどのようにして世界チャンピオンになったのかは、このページをご覧の方はご存じない方が多いと思いますので、その部分を引用しておきます。

そして、彼が国民的ヒーロー*4になったのは二十九歳(七二年)のとき、アイスランドレイキャビクで行われたソ連のボリス・スパスキーとの世界選手権でした。

このときまで世界のチェス界はソ連の独壇場でした。ソ連はオリンピック選手を養成するのと同じように、国を挙げて有望な子供を集めてはチェスプレイヤーを育て上げました。東西冷戦がもっとも厳しかった五〇年代、六〇年代を通して、他国はソ連にかないませんでした。

そこに現れたのがフィッシャーです。両者の戦いは米ソの代理戦争のような様相も呈しました。フィッシャーは約二ヶ月におよぶ激闘の末、スパスキーを破り、二十世紀になって初めてアメリカ人がチェスの世界チャンピオンに輝きました。

このように、冷戦という時代を背景にして、フィッシャーはチェスという競技の枠を越えたヒーローとなったわけです。その後、自らの言動で苦しい立場に追い込まれ、事実上米国に帰れなくなってしまうのですが、日本にいれば自分のことを知っている人がほとんどいないので快適だったのだろうと羽生は推測しています。

羽生がフィッシャーを支援する理由は、もちろんフィッシャーがそのような有名人だからというだけではありません。むしろ、棋士としてフィッシャーの棋譜に感動したことが大きく影響したのではないかと私は思います。次に書かれるのは、そのフィッシャーのチェスの特徴についてです。

高いレベルのチェスは差が付きにくく引き分けが多くなるというのは、よく知られているところです。

ところが、フィッシャーさんは、普通なら0-0*5や、良くても1-0にしかならないような対局で、3-0の勝ち方をしてしまうプレイヤーなんです。柔道でいうと、判定ではなく、一本勝ちを狙いにいって、その通りに勝ってしまう井上康生選手のような存在とでもいいますか。

ですから見ていて非常に爽快だし、派手で華麗です。棋譜の中に、こんな手順が実際に盤上に現れるのかと、ほれぼれするような手が多い。

ある人から「『羽生マジック』に似ていますか?」と聞かれたことがありますが、とんでもない。私の将棋はミスも多いですがフィッシャーさんは最初から最後まで完璧に近い。神の領域に近づいている人です。

このように、最上級の形容でフィッシャーをほめたたえています。

しかし、モーツァルトだそうだったように、フィッシャーには激しい「個性」がありました。それはある面では、チェス界の苛烈さの中ではそうでないと生き抜いていけないという部分もあったのでしょう。羽生は七二年の世界選手権におけるエピソードを紹介しています。

また、将棋界の感覚では理解できないのですが、封じ手になった夜に仲間と一緒に研究するのは、チェスでは当然の権利と考えられています。強豪の多いソ連はそれだけでも有利なのですが、フィッシャーさんはアメリカ人として一人で世界選手権の予選を勝ち上がって行きます。私は映画の「ランボー」を思い出しました(一人で軍隊に向かっていきますよね)。自己主張しないと道は開かれない。だからこそ七二年のボリス・スパスキーとの世界選手権は大変でした。

『白夜のチェス戦争』*6によると、フィッシャーは賞金の増額を要求して、第一試合の期日に遅れます。その上に第一局を落とすと、中継のテレビカメラが気に障るから、カメラを撤去しないと残りの試合を放棄すると宣言する。第二局は出場を拒否し、スパスキーの不戦勝になりました。このまま帰国しようと空港に向かったフィッシャーに、チェス好きのキッシンジャー大統領補佐官(当時)が「国のために試合をしてくれ。ニクソン大統領も期待している」となだめ、第三局はカメラのない非公開の小部屋で行うことになりました。

将棋の名人戦と比較しても、チェスの世界選手権を戦うプレイヤーは多くのものを背負わされ、多くの対局を様々な形のプレッシャーの下で戦うことになります。

欧米では、チェスは盤上の芸術であると同時に、たいへんな対局を要する「頭脳スポーツ」であると見なされています。そういう環境でトップを究めたプレイヤーが、極めて「個性的」な人格の持ち主であることも、納得できる気がするのです。

そして、羽生は機会があればフィッシャーとチェスを指したいと書き、最近の状況について書いてから、次のように文章を締めくくっています。

フィッシャーとチェスを指すチャンスがあれば、光栄です。ただ、なにしろ「伝説のチャンピオン」ですから、会うのが怖いという気持ちも少しあります。

フィッシャーさんは牛久の収容施設でもチェスの研究をやっているのでしょうか。おそらく彼は、日本には将棋という競技があるということを、知らないような気がします。機会があれば、お目にかかって、将棋盤と駒をさし上げたいと思います。

この文章は、羽生にしては珍しく、政治的意図を持って書かれたものです。したがって、書いてあることはある程度まゆにつばをつけて受け止める必要があるでしょう。美化して書かれている部分もあるでしょう。しかしそれを差し引いても、羽生のフィッシャーへの思い、チェスへの思いを私は強く感じました。将棋にもチェスにも共通する美しさ、華麗さ。そういったものはおそらく万人を引きつける魅力があるのではないでしょうか。

この問題が良い形で解決することを願わずにいられません。

*1:ここでは敬称略としてみます。

*2:筆者注:このメールが送られたのは2004年9月5日。

*3:筆者注:羽生が趣味としてチェスを始めた頃。

*4:筆者注:アメリカ合衆国

*5:筆者注:サッカーの例え

*6:フランシス・ジョージ・スタイナー著、諸岡敏行訳、晶文社、1978年、ISBN:4794955758